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メイ

@mRNA65830888

20代。最後の相手と誓った主人を癌で亡くしました。2歳の子と2人暮らし。標準治療に加えて沢山の自費検査や治療をしても助かりませんでした。ステージ4癌を治すなんてあり得ない思考に囚われていました。毎日心の中で話をして、遠距離恋愛と思って過ごしてます。育児が終わったら、あの世で主人と暮らすことを支えに今生きています。

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@mikimiki1178

子どもが無事大学を卒業して、白衣を着ている姿を見られたら、悔いなく死ねるでしょうから、そこまでは頑張りたいです。


「緊急時は症状緩和の処置のみ。延命処置はしないで下さい。意思決定ができない状態で病が発覚したとしてもいかなる治療も希望しません。」と書いたメモを財布に入れています。自殺は主人に会えなくなるからしないけど、死に抗うことはありません。子どもが困らないよう遺言はしっかり作っています。


主人の死と、生に対する執着からの解放を経験してようやく、不治の病になったら受け入れるべきものなのだと理解しました。勝ち負けではなく、あるがままを受け入れて、生きる時間をどう過ごすか。主人は仏教が好きでよくそのような話をしていました。その時は受け入れられなかったけれど今なら分かる。


標準治療、自費治療、癌治療はもう信じない。使えば少しは命が伸びるかもしれない。その代償は大きすぎました。口内炎の副作用でご飯も食べられなくなって、衰弱して肺炎になり死にかけている主人を人口呼吸器に繋いで懇願して。助けたいのに毒を打って苦しめてしまいました。


ICI治験のHPDさえなければ増悪することはなかったのか、悩みました。でも、急激な白血球数の増加や骨折の窮地から救ってくれた抗がん剤と放射線も、結局は主人をボロボロにして殺す毒になりました。藁をも縋る思いで掴んだものに絞め殺される。これが癌治療です。もう家族には使わせたくないです。


病気が悪化してから毎日、朝から晩まで、奇跡が起きて治る世界線を想像して「大変だったね」「その分これから楽しみね」って主人と話している場面が脳裏に浮かびました。本当に心から”絶対に治る”と思っていたんです。あの時は。無意識にそうして心を保っていたのかもしれない。


頑張りますので終わったらどうか早く迎えに来てください。お願いします。


主人が亡くなってからの働きがようやく身を結びます。子どもがやりたいと言ったことは何でもやらせてあげられる余裕は生まれました。父親の写真を見せ、話を聞かせて記憶に根付かせること。豊かな生活と文化資本を与えること。こんなことしかしてあげられないけど、大学卒業まで育て上げます。


精神的ショックと誰にも頼れないワンオペ育児の中、億単位のお金を動かすこと、弁護士も介入するようなシビアな話し合いの連続で壊れてしまいそうでした。ストレスに追い詰められ、身体を壊して入院したこともありました。主人と私、一年で二度も救急車のお世話になりました。


主人と営んでいた事業を、私一人では動かせないので、売却するために亡くなってからずっと必死です。追いかけて死にたくて仕方なかったけど、子どもの将来を守るため。両親揃っている家の子どもよりもしっかりと教育を受けさせてあげたい一心でがむしゃらに動き続けました。


終わりは一瞬。部屋がピーと冷たい機械音で満たされ、私は呆然と何年もこれだけは嫌だと思い続けていた場面を直視していました。子どものこと、自営のこと、明日からどうしよう、と悲しみより先にどうしように頭が支配されました。あれだけ主人の死を恐れて泣いたのに、涙が出ませんでした。


まだ小さな子どもがいるから絶対に死なせないでほしい、と主治医に懇願しても誰にもどうにもできません。死なない程度にと釘を刺してもモルヒネ静注の投与量増やされ、血中酸素50まで落ちる。もう何も分からないでしょうに子どもを近づけたら酸素が上昇する


そんな感情を押し殺して、最期の最期まで私は主人の生に執着していました。人工呼吸器に繋いだまま担架で飛行機に乗せてトモセラピーを受けに行くから助けてほしいとソーシャルワーカーさんに懇願しました。でも、その日に死んでしまいました。


毎分毎秒時間が過ぎていくのは当たり前のことなのに、その当たり前のことが一番の苦痛でした。それは無力に壊れていく姿を見ていく中で、もう治せない、終わりに向かっている、と心の奥底で考えていたからだ、と今になり思います。


連日悪夢に魘されていました。知らない場所で主人を見失う夢、誰かにはがいじめにされて動けなくなる夢、突然ギャーと泣き叫び飛び起きて、いつも主人は察して、涙の止まらない私を黙って抱きしめてくれました。


出産も、背骨が折れた主人に食事の準備や靴下を履かせてあげられないのが心配で、無理を言って連日促進剤入れ院内を何時間も歩き続けて無理矢理産みました。直後、無事生まれてよかったではなく、やっと主人のことを見に帰れる、とほっとしたのを覚えています。


主人は「なるようにしかならない」と達観していたので、私の方が常に精神的に追い詰められていました。妊娠期間も頭の中は赤ちゃんのことより癌のことばかり。


必死に説得して、ファンダ2回目もガーダント360も検査お願いしました。まだ使える抗がん剤いくつかあったのに、主治医から別の薬を勧められ、職業上主人は反論できず、どんどん悪化していきました。悔しかった。


毎日深夜まで、ブログから国内外の論文まで調べ尽くして治療ノートを何冊も作り、暗号文のような血液検査の結果も読めるようになりました。


結婚式の一週間後、癌に罹患したことを知らされるまで転移という言葉すら知りませんでした。なったら半年で死ぬ病気、抗がん剤という謎の薬物治療を受ける みたいな知識レベルでした。


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